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〈「避難所のトイレはなぜ詰まったまま放置されるのか?」運営スタッフになった被災者を困惑させた“最大600人の避難生活” 〉から続く
石川県輪島市で最大震度7強を記録した能登半島地震。
【画像】能登半島地震の被害状況を写真で一気に見る
同市の漁師、上浜政紀さん(60)は、被災後に身を寄せた小学校の体育館で、避難所運営のスタッフに加わった。最大600人ほどが避難したというのに、運営スタッフは約10人しかいない。睡眠が2~3時間しか取れないほど忙しかった。地震の被害が酷いうえに、外からの支援も足りなかったのだ。このため「迷惑になるから奥能登には行くな」という世の大合唱を無視して救援物資を持って来た人やグループを「こき使う」ことになる。
自動車が通る道路も完全にふさがれている(輪島市)
炊き出しの回数は避難所によってさまざま
避難所では、これまでの災害で指摘されていた問題が、再現フィルムのようにして起きた。
例えば、避難所間の差だ。
全市が壊滅に近い状態になっていた輪島では、ほうぼうに避難所が設けられた。上浜さんが運営スタッフを務めた小学校の体育館から400mほど離れた公民館には、知人や親族が多く避難していた。大津波警報が出た時に一時避難した高台にも集会所があり、ここにも避難者が大勢いた。
ところが、上浜さんが見に行くと、初期には食べ物がほとんど届いていなかった。このため、特に高齢者が多かった高台の集会所には、小学校の体育館で余った物資を運んだ。
「災害が起きた時には避難所同士の連携が必要だと言われてきました。でも、横のネットワークは全くありませんでした」と上浜さんは指摘する。
炊き出しも避難所によって行われる回数が違い、多かったのは上浜さんが運営スタッフを務めた小学校だった。上浜さんは公民館に避難していた人に食べに来るよう伝えるなどした。
同じ小学校の中でも、体育館にいる人と、グラウンドで車中泊をしている人には差があった。このため、上浜さんは届いた毛布などは寒さが厳しい車中泊の人に手厚く配るようにした。
「避難所に来ない人」がいて、初めて避難所の機能が発揮できる
避難所に来ないで、壊れた自宅で在宅避難している人との差はさらに大きかった。
「車中泊や在宅避難では、赤ちゃんや小さい子を抱えた母親が目立ちました。大勢の人がいる体育館では夜泣きをすると迷惑になるなどと考えたようなのです。支援が高齢者に偏っているのではないかと感じました」と語る。
「ぎゅうぎゅう詰めの体育館にはいたくないという人や、何らかの事情があって体育館に来られない人もいます。しかし、『体育館に来ないのはその人の勝手だ』と思っている人もいました。避難所に入った者勝ちなのか。全ての被災者が体育館に身を寄せたらパンクしてしまいます。体育館に来ない人がいるからこそ、避難所として運営できるのです」と力を込める。
避難所は「避難所に来ない人」がいて初めて避難所の機能が発揮できるという上浜さんの指摘は、まさにその通りだろう。私達も胸に刻んでおきたい。
では、どうやって在宅避難している人を把握し、物資を届けるなどしたらいいのか。
上浜さんは輪島市にありながらも、375年間も独自の文化を維持してきた漁師町「海士(あま)町」の前自治会長だ。海士町の人々の間には閉鎖的と言われるほど濃いつながりがあり、被災後も誰がどこにいるかが噂のようにして広がって、だいたいの所在は把握できた。日頃の人間関係があってこその話だろう。
住民の動向を把握する余裕はなく…
海士町の住民が江戸時代から住んできたのは、加賀藩主から拝領した狭い土地だ。各戸の敷地面積が10坪(33平方m)ほどしかなく、自宅には駐車場も作れない。このため自治会に加入したまま、エリア外に家を建てる人が増えた。上浜さんもそのうちの一人だった。
そうなると不思議な現象が生じる。ほうぼうで暮らす海士町の自治会員の動向は手に取るように分かるのに、実際に住んでいる地区では一般の市民程度にしか近所付き合いがなく、隣近所のことしか分からなくなる。誰がどこに避難しているかなど知る余地もなかった。
こうした市街地では地区の区長ら地域組織の役員が自宅避難者を調べるべきなのかもしれない。
だが、これほどの大災害になると無理だった。上浜さんも「私が住んでいる地区の役員は、90歳を超えた親を金沢に避難させるなどしていたので、住民の動向を把握する余裕などありませんでした」と話す。
親子連れに声を掛けたら不審者扱いされる始末
では、外部からの支援でどうにかできないか。当初はこれも難しかった。
今回の地震は半島の先端部ほど被害が酷く、奥能登に向かう道路が通れなくなった。被災範囲も広くて半島には泊まれる施設がない。外からの支援はなかなか届かなかったので、山間部や海岸沿いで孤立集落が多数出ただけでなく、市街地も半ば孤立したようなものだった。あまりの惨状に市役所や町役場も機能しない。
初期には誰も在宅避難者を把握できなかったのである。
上浜さんは自宅の近くで親子連れがいるのを見つけ、「パンを食べますか」と声を掛けたことがある。体育館で余ったパンがあれば分けようと考えたのだ。しかし、「あなたは誰ですか」と不審者扱いされる始末だった。市街地ならではの出来事だろう。ある日、80歳ぐらいの男性が避難所の体育館に現れた。「『炊き出しが行われている』という噂を耳にして、半日ほど歩いて来たそうです。残念なことに、その日は炊き出しがありませんでした。『一緒に体育館に避難しませんか』と誘いたかったのですが、避難者でいっぱいでスペースがありません。かろうじて水とパンは持ち帰ってもらえましたが、あまりに気の毒でした」と上浜さんは目を伏せる。
上浜さん宅の近所では、90歳ぐらいの男性が避難所に行かずに、独りで在宅避難を続けていた。上浜さんが会った時、目の周囲を大きく腫らしていて、「どうしたのか」と尋ねると、「アスファルトで転んだ」と答えた。
今回の地震では、激しい揺れでアスファルトが割れたり、左右からの圧力でアスファルトがカミソリのようにめくれ上がったりした。マンホールも至るところで隆起した。このため多くの自動車がパンクした。そうした場所で転倒したのだろうか。
この男性は診療も受けていなかったので、上浜さんは医療関係者につないだ。家では飲み水も尽きていたようで、避難所に届いていた中から分けた。
遠方から来たボランティアグループを「こき使う」
わずかながらも人手不足解消の役に立ったのは「禁」を犯した人々だった。
「避難所では当初、ボランティアは受け入れないと決められていました。が、物資を持って来た人を拒む理由はありません。ついでに避難所の運営を手伝ってくれる人もいて、言葉は悪いですが、こき使わせてもらいました」と上浜さんは話す。
最初に来たのは発災から2日目、首都圏の若者だった。上浜さんのことを「隊長」と呼んで懐いてきたが、突き放すようにして、こき使った。それだけ余裕がなかったのだ。
東京からトラックで物資を運んで来た20~30代の土木関係者6人ほどのグループもあった。物資を下ろした後、泊り込んで手伝った。
神戸からは「阪神・淡路大震災でお世話になったのに、居ても立ってもいられなかった」というグループが来た。幹部と子分がいるような感じの団体で、テントを張って自活しながら、避難者への炊き出しをした。不足している物がないか聞き取り、大型車で運び込むようなことまでした。その大型車が損壊した道路にはまって立ち往生し、物資だけワゴン車でピストン輸送していた。
内輪もめしてるところを『もめるなら帰れ』と一喝
韓流スターのような格好をした中国の人々も訪れた。ただし、被災地で働いてもらうにはふさわしくない格好だ。上浜さんらは「市役所に行って、指示を仰いでくれ」と伝えた。
こうして避難所となった小学校には、発災から1週間強で10グループほどが訪れたという。
多種多様な人だけに、使う側の力量も試された。上浜さんら存在感のある漁師がにらみを利かしていたので対処できた部分もあったのだろう。
「神戸から来たグループは、子分が手違いを犯したということで、幹部が叱りつけていました。そうした仲間うちのことは、私達には関係ありません。『もめるなら帰れ』と言いました」と上浜さんは話す。グループは態度を改めた。
上浜さんはそうして来てくれることが嬉しかった。
握手で別れる時に、「次は漁の話を聞かせてください」と言う人もいた。
「能登には縁もゆかりもないのに、誰もが一生懸命に手伝ってくれました。本当にありがたくて、涙が出ました。逆に自分の小ささが分かるような気がしました」としみじみ語る。
帰省中に被災した若手が運営スタッフとして加入
上浜さんが体育館に寝泊まりしたのは5日ほどだった。混乱を窮めた5日間だったろう。
85歳の母親はもともと足が悪かったのに、避難所では動く機会が減ったせいか、トイレに歩いて行くにも転倒するようになった。「このままでは健康を害してしまう」と考え、上浜さん一家は倒壊を免れた家に戻った。
上下水道は使えない。イスと簡易トイレを加工して、洋式便所風なものを手作りした。熟練の漁師にとって、このような加工はお手の物だ。工具は船に積んでいた。
在宅避難に移ると、母親は転倒しないようになっていった。
その後も上浜さんは運営スタッフとして避難所通いを続けた。
未明に起きると体育館へ行き、当番をしている人と交代して眠らせるなどした。
日にちが経過すると、運営スタッフになってくれる人が増えた。
「金沢などから帰省して被災した若手も加わりました。若い人がてきぱき作業をしてくれるようになり、避難所の運営は軌道に乗っていきました」
そうした状況を見届けて、上浜さんは2次避難所に移ろうと決めた。
睡眠不足と過労で顔面麻痺を発症
輪島市の山間部には地震による土砂崩れで天然のダムがいくつもできていることが分かり、決壊すれば下流に被害を及ぼしかねないとされていた。上浜さんの家は河原田川のすぐそばにあり、しかも川がカーブしている場所なので危険だった。母親の健康状態が心配な面もあった。坂口茂・輪島市長も遠隔地への2次避難を呼びかけていた。このため、まずは1・5次避難所の「いしかわ総合スポーツセンター」(金沢市)に2泊して、割り当てられた県南部の加賀市の旅館に向かうことにした。
1月11日、輪島市を乗用車で離れた。道中にコーヒーを飲んでいると、なぜか口の端から漏れて仕方がない。右目も閉じなくなっていて、眼球が乾燥してしまう。
顔面がマヒしていたのだ。
発災当初は睡眠を取る余裕もなかった。避難所暮らしが始まって間もなくは1日に1~2時間、最後まで2~3時間しか寝ない日が続いた。
気が張っていて自覚はなかったが、体が悲鳴を上げていたのである。
2次避難所に到着すると、病院通いが始まった。
〈《石川県最多の水揚げを誇る輪島は滅びるのか》「漁に出られなければ借金が払えない…」漁師たちは悲鳴を上げた 〉へ続く
(葉上 太郎)
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