学校でのできごと、友だちのこと、家族のこと、将来のこと――。1945年、広島と長崎に住む10代の若者たちが、それぞれの何げない日常をしたためた日記が残っています。何げない日常をしたためた3人の日記は、8月6日、そして9日から突然白紙になりました。
その中の一人、森脇瑤子(ようこ)さん(当時13)は、女子の名門「広島県立広島第一高等女学校」の1年生でした。出征中の父のほか、母と兄がいます。
熊本悦子さん(同)は森脇さんと同じ学校の1年生。勉強も家の手伝いも、何にでも一生懸命な子だったといいます。
小説好きの秋口明海(あけみ)さん(当時17)は長崎市内に下宿をしながら、長崎医科大で医学を学び始めたばかりの学生でした。
広島に原爆が投下される3日前、1945年8月3日の3人の日記を紹介します。
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森脇瑤子さん(当時13)、広島市在住
今日は、竹屋町の農園に行った。あまり手入れがしてなくて草がたくさん生えていた。みんな一生懸命に除草したので、またたくまに黒土が、美しく光りだした。その黒土を、また掘り返して大部分を耕した。
汗を流して、一心にやった後の気持ちは、本当によかった。
少し身体が疲れたような気がするが、このくらいは何でもない。
お姉様方は、全部、いろいろな方面で、一生懸命に、働いていらっしゃるのだ。どうして、どうして「疲れた」などと言われようか。明日も農園に行く。一生懸命にやろう。
熊本悦子さん(当時13)、広島市在住
朝、大へん涼しくて気持ちがよい。竹屋の農園に行って、整地作業と除草作業をした。きんちょうのせいか、頭が痛くない。うれしい。早くすまして学校にかえると、そめた服が来ていた。私のは両方ともよくそまっていた。早く着たくてならない。
家ではらっきょうの皮をきれいにしたりおいもを切ったり、かえるとすぐそれをして少しも勉強が出来ない。なぜ私はこんなのだろうと思うと悲しくなる。思うだけ復習や予習がしたいと思う。夜はもうねむくてねむくてたまらない。悪いとは知りながら、何もしないで床についた。
秋口明海さん(当時17)、長崎市在住
今日も9時から作業なので朝寝した。朝から強い風雨だったが、ちょっと雨がやんだので傘は持たずに行った。
病院の復旧作業だ。病棟のそばの畑に落ちた爆撃の穴埋めだ。直径10メートルにもわたる大きなすり鉢形の穴である。
11時ごろ警戒警報だというので作業を中止して防空配置についた。弁当を食べてるとまた雨が降り始めた。1時からまた作業だというので大雨の中をぬれそぼって病院の方へ行く。
2時ごろ作業を終了し、学校の方へ行くと婦人科に加勢に行けとのこと、分隊全員で3時20分まで遊びそれから婦人科の方へ顔を出しに行ったら、一小隊の他の分隊も遊んでたと見え、M助教授から散々叱責(しっせき)された。第一病院の指導者の命令も不徹底でまるでなっていなかったのだ。
帰りは4時半になってしまった。電灯がつかぬので8時半に寝る。
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【注釈】遺族の許諾を受けて、日記に出てくる漢字の旧字体は新字体に変更し、家族以外は匿名にするなどした。記述の意味や背景を伝えるため、情報を丸カッコ内で補足する場合がある。
熊本悦子さんの日記は広島平和記念資料館所蔵、熊本隆聡さん寄贈。広島県立広島第一高等女学校は現在の県立広島皆実(みなみ)高校、長崎医科大は現在の長崎大医学部。
森脇さん、熊本さん、秋口さんの写真は遺族提供。早稲田大理工学術院の石川博教授の協力を得て、石川研究室が開発した人工知能(AI)技術を用いてカラー化した。
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