【越智正典 ネット裏】山崎武司も名電(現愛工大名電)高校野球部合宿所寮母・保子さんのやさしさに育っている。山崎はドラフト2位で1987年中日に入団。96年本塁打王(39本塁打)。2007年、楽天で本塁打王と打点王(43本塁打、108打点)。天分だけでタイトルは獲れない。ふだんは少しタレ目でニコニコしているが、彼の鍛錬に何度も息をのんだ。
名電では捕手で、センターのうしろの、そのまたうしろの庄内川に大ホームランを叩きこんでいる。評判を聞いて中日監督・星野仙一が春日井のグラウンドまで見に行った。山崎は補講授業からまだ戻っていなかった。星野は庄内川を眺めると、山崎の2位指名を決めた。1位は早くから享栄高校の左腕・近藤真一に決めていた。同行の友人が「見てないのに獲って大丈夫か」。星野が言い放った。「いまのセ・リーグには左(投手)がそろっとる。左を打てんで勝てるかッ」。
星野のチーム作りが始まる。87年に入団したばかりの山崎と、埼玉県大宮東高校の内野手・荒川哲男をフロリダ州セントピータースバーグの教育リーグに送り出す。引率コーチは高橋三千丈(静岡商業、明治大学。日米大学野球第7回大会第1戦の勝ち投手)。卒業後、彼ほど恩師・明大監督、島岡吉郎を訪ねた男はいない。実家は熱海にあり、いつも天日干しの干物が島岡と後輩たちへの土産だった。人柄、キャリア、申し分ない。
現地では部屋を借りて3人で生活。高橋の苦労はこの上なかった。山崎も荒川も試合に出してもらえなかったのだ。
どうして出してくれないんだ。しかし、高橋は耐えた。試合が始まると、試合終了まで場外の小さな広場で2人にノックを打ち込んだ。2人が疲れていると見た日は、1人100本、2人で200本を打ち込んだ。この一心な姿がラルフ・アビラGMからロサンゼルスに報告され、88年の星野念願のベロビーチキャンプ実現につながる。高橋の殊勲である…。
山崎に“弟”が出来た。他チームの16歳の少年選手、ジヤビラくん。全打席、セーフティーバント。体が小さいのでこれ以外に生きる道はない。山崎がその「志」を讃えた。握手。それからジヤビラくん、毎日兄と慕って山崎のロッカーにやって来た。山崎はハンバーガーをご馳走していた。
大任を果たして帰国。山崎は大好きなお母さんと街に買い物。荷物持ちのつもりだったが火事に遭遇。猛火と黒煙の中に飛び込み、女の子と子犬を救出した。85年の新人選択会議で6位で、86年巨人に入団した外野手・杉浦守も寮母さんの「アーン」で育った1人である。
結婚し、女の子さんが生まれると、ヨメサンのおとうさんが「舞」ちゃんと命名。贈られた。
すると、半紙を買って来て机に向かって、毎日筆で「舞」と書いて稽古した。
「名電の赤点追試よりこの練習はむずかしいや」。一生懸命なパパである。たのしいパパである。
=敬称略=
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