
相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が殺害された事件から5年となるのを前に、現場に再建された施設で追悼式が行われました。
施設の広場には慰霊碑が設置され、すでに公表されている1人を含む犠牲者7人の名前が刻まれました。
この事件で、警察は、遺族の意向などとして亡くなった人の名前を公表しませんでした。
警察は、殺人事件などの被害者の名前は原則として公表していることから、障害福祉に関わる人からは「障害者を匿名とするのは逆に差別ではないか」といった非難の声も上がりました。
去年、行われた裁判でも当初、19人は「甲Aさん」などと呼ばれて審理されることになっていました。
こうした中、事件当時19歳だった女性の遺族が裁判にあわせて女性の下の名前を公表し、法廷で美帆さんの名前が読み上げられました。
母親はNHKに寄せた手記の中で、「美帆は一生懸命生きていました。その証を残したいと思います。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした」と、名前を明かした思いをつづっています。
一方、裁判で「甲Eさん」と呼ばれた60歳の女性の弟は、事件の直後、あまりのつらさから警察などに匿名で発表してほしいと申し出たということです。
それでも、「障害のある犠牲者を匿名にすることが差別を助長している」といった指摘に、「自分は姉の存在を否定しているのか」と悩み続けてきたといいます。
事件で重傷を負った尾野一矢さんの父親で、息子の実名を出して取材に応じたり、各地で講演したりしている剛志さんは「障害のある家族を世間に出さないという方もいらっしゃると思います。そうした方々を責めるのではなく、障害は個性であって、何も恥ずかしいことはないと理解を呼びかけていくことで世の中が変わればと思っています」と話しています。
事件から5年となることし、現場となった「津久井やまゆり園」の再建にあわせて、神奈川県は、犠牲者を追悼するモニュメントを設置することを決め、ことし1月にデザインを公表しました。
このとき、県は、モニュメントに犠牲者の名前を刻むかどうかは一律に判断せず、遺族の意向に沿って対応するとしました。
その後、県が19人の遺族それぞれに意向を確認した結果、母親が下の名前を公表した「美帆さん」を含む7人の名前が刻まれました。
献花台には、ほかの犠牲者の名前を刻むためのスペースも設けられていて、県は、今後、遺族の希望があれば、新たに名前を加えることにしています。
齊藤恵子さんは、事件当時、55歳。
裁判では「甲Jさん」と呼ばれました。
遺族が恵子さんが生きていた証しを残したいと今回、名前を刻むことを決めたということです。
恵子さんは、いつもニコニコしている穏やかな人で、草や葉っぱを手に取ってくるくると回すのが好きだったということです。
裁判で読まれた供述調書の中で弟は「脇を抱えながらであれば歩くこともできたし、スプーンを持たせてあげれば自分で上げ下げすることもできました。トイレに行きたいときは腹をぽんぽんと叩いていました。私たち家族にとっては特別なサインで、言葉による意思疎通はできませんでしたが、母がつくったご飯に顔をくしゃくしゃにして喜ぶなど、動作によるコミュニケーションはとれていました」と述べていました。
元施設職員の70代の女性は「道ばたの草や葉を手に取ってくるくると回す姿は、私たちを和やかな気持ちにさせてくれました。心がきれいなままの方で、お父さん、お母さんの努力があったのだろうと思います」と話していました。
元職員の40代の女性は「言葉はほとんど話しませんが、周りが言っていることはすごくわかっていると思うことがたくさんありました。ご家族が面会に来られない月があると建物の入り口まで歩いて立っていました。ご家族に会いたくてさがしているんだなと思い、印象に残っています」と話していました。
山本利和さんは、事件当時、49歳でした。
施設内でも特に活発で、テレビや本で囲碁を学ぶことが大好きだったということです。
施設で山本さんを10年以上担当した元職員は「ベッドの上に正座して勝負師みたいな顔でテレビの囲碁の番組を見ていたのを覚えています。最愛の家族を失っただけに事件を忘れたい気持ちもあるでしょうから、名前を刻むかご家族は悩まれたと思います。山本さんたちと過ごした楽しい思い出を胸に供養を続けていきたい」と話しました。
去年開かれた裁判で読まれた供述調書の中で母親は「息子は夫と囲碁を打ったり外出することが好きでした。グラタンが好きで、喫茶店でグラタンを食べているときはいい笑顔をみせていました。また車に乗るのも好きで、夫と旅行するときは助手席に乗って安全確認をしてほめられると、うれしそうにしていました」と述べています。
そして、「誕生日に施設に電話して『おめでとう、何歳になったの?』と聞くと、『49歳になった』と返事をし、照れくさそうにしていたのが最後の会話になりました。息子は必死に生きていました。私は、息子が生きているだけで幸せでした」と述べています。
今回、モニュメントに名前が刻まれた中には、去年1月の裁判にあわせ遺族が下の名前を公表した美帆さんの名もあります。
19歳で犠牲となった美帆さんについて母親は、事件の初公判が開かれた去年1月に、0歳から19歳までの成長を追った4枚の写真とともに美帆さんの名前を公表していて、手記の中で「笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした。美帆は一生懸命生きていました。その証しを残したいと思います」と記していました。
今回、モニュメントに名前を刻んだ心境について母親は「名前を出したことは今も後悔していないし良かったと思っています。『人は2度死ぬ』ということばを聞きますが、1度目は肉体が滅びたとき、2度目はその人のことを知る人が誰もいなくなった時だといいます。名前を記すことによって美帆を思い出してもらえ、誰かの心の中で生き続けることが出来たらと思っています」と話していました。
そのうえで、東日本大震災の被災地を訪れ、慰霊碑を前にした際に、地元の人に「全員の名前を触っていって下さいね」と声をかけられたことが印象的だったと振り返り、「完成したモニュメントを訪れて下さる方がいたら、美帆という名前に触れて美帆という子が生きていたんだなと、思いをはせて頂けたらと思います。そして覚えていてほしい、忘れないでいてほしいです」と話していました。
からの記事と詳細 ( 障害者施設殺傷事件 慰霊碑に名前刻まれた経緯は|NHK 首都圏のニュース - NHK NEWS WEB )
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